日本の城  日本の城明禅寺城 備前 八の三
日本の城を写真にて攻め撮るのでござる。おかしな物語と共にいざゆかん戦国無双の城撮り名人の道!
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日本の城を攻め撮れー城撮り物語ー

<明禅寺合戦>


 三村家親を暗殺された三村家は元親が家督を継ぎました。三村家からは復讐戦を挑む者もありましたが、小勢での無謀な戦に過ぎず、宇喜田直家に一蹴されます。元親はこの状況の中、直家に復讐する機会を伺うこととなりました。



明禅寺城 周辺図(下が北方向) 写真は拡大します
操山地図



 永禄9年(1566)秋、直家は支配領域を拡げるため、上道郡沢田村、明禅寺山(現在の岡山城の旭川を超えて東)に城を築き、軍勢を駐屯させました。





 これに対し、永禄10年(1567)春、三村方が明禅寺城へ夜討ちをかけ、不意をつかれた宇喜田勢の50人から60人が討たれ、明禅寺城は三村方の手に落ちます。三村方は、根矢与七郎、薬師寺弥七郎に150人の城兵を預けて城の守りとしました。


 ここで直家は、またしても謀計を巡らせ、賄賂を用いるなどして、先の三村勢の備前急襲で三村家親に降伏した岡山城主、金光宗高と中島城主(現岡山市八幡)、中島大炊(おおい)、舟山城主、須々木豊前を寝返らせることに成功しました。


 彼らは遠く離れた備中に援軍がいるため、すぐに助けを求める事ができないという不安が大きく、簡単に寝返ったのです。


 その上で、直家は降伏勧告の使者を明禅寺城に送りました。明禅寺城は各城主の裏切りによって、敵中に孤立した形になっていましたが、根矢、薬師寺らは寝返りを信じず、直家の虚言と思っていたため、降伏勧告を拒否します。


 もっとも、明禅寺城の兵は少なく、直家が攻撃に出れば到底持ちこたえられないため、備中本国に救援を求める使者を送りました。


 これを察知した直家は、明禅寺城を攻めて、後詰め(救援)に来る三村勢を勝手知った備前の地に引き込み、殲滅する作戦を立てます。


 まず、金光宗高に備中勢が後詰めにくるよう誘い出せとの指示を与えました。金光はこの指示を受け、三村元親の姉聟の石川久智へ使者を出し、明禅寺城と連携して直家の軍を挟撃する作戦を提案しました。三村元親は、明禅寺城からの報告も同様であったため、これを受け入れ出陣する決意をします。ここに明禅寺合戦の舞台は整ったのでした。





 三村方は総大将を三村元親とし、石川久智、植木秀長、庄元祐らが加わり、備中の諸軍1万余を終結させて、一路備前へ進軍を開始しました。


 一方、直家は本拠沼城を発し、5千余の軍勢を5段に配置し、先手を明禅寺城へ派兵しました。


 三村方は辛川表(現岡山市辛川)で備前の諸軍をも集結させて軍議を行い、次のような作戦を立てました。





 まず先陣を庄元祐の7千余人とし、金光宗高を案内人として南へ進行し、岡山城の南を大きく迂回して旭川を渡河し、明禅寺城へ進出させる。


 中軍を石川久智の5千余人とし、岡山城のすぐ北を通過し原尾島村(現岡山市原尾島)に進出し、明禅寺城を攻める宇喜田勢の背後をつく。


 大将の元親は、中島大炊を案内として8千余人を率い、釣の渡し(現岡山市三野)から旭川を渡河し、四御神(しのごぜ)村(現岡山市四御神)を通り、空になっている直家の本拠沼城を急襲する。


 三村勢は、このように完璧な作戦を描き、3手に分かれて進軍を開始しました。





 一方の直家は、明禅寺城の兵と一戦した後、暫く休息を入れていたところに三村勢が3手に分かれて押し出してくるとの報告を受けました。これを聞いた直家は、ここが勝負所と察していたのか、すぐさま采配を振るって直ちに城を攻め落とせと下知し、自ら真一文字に城下へ駆け入りました。兵卒も大将直家の果断な行動を見て、怒濤のごとく後を追い、明禅寺城に大攻勢をかけ、なだれ込んで斬り回り、瞬く間に落としてしまいました。


 アテが外れたのは三村勢です。明禅寺城の兵と挟撃するつもりが、その前提が崩れてしまいました。





   そればかりか、先陣の庄元祐が三棹山(現操山)に軍を進出させていたところ敗残兵に行き会います。何事かと尋ねる間もなく、同時に三棹山の山頂に布陣していた宇喜田勢の先手、明石、戸川、長船、宇喜田忠家の諸隊から鉄砲の斉射を受けてしまいました。


 勝ちに乗じる宇喜田諸隊は、鉄砲を山頂から釣瓶撃ちにして、敗残兵と出会い落胆する庄元祐の軍勢を混乱させると共に、山頂から鉾先を揃えて逆落としに突撃した為、庄軍は大混乱に陥り、たちまち退却を始めました。


 庄元祐は50人程の旗本を指揮して踏みとどまりましたが、崩れる味方を見て討ち死にを覚悟し、延原土佐の軍勢に攻めかかりました。


 死に物狂いの攻撃に、延原隊は浮き足立ちましたが、これを見た二陣の宇喜田忠家が、すかさず庄の軍に横合いから突きかかりました。


 庄は、宇喜田の旗印を見て、宇喜田一族に違いないと思い、再度突撃をかけ奮戦するも遂に手負いの身となり、退却するところを宇喜田方の能勢修理に討ち取られました。





 中軍の石川久智は、明禅寺城が落ち先手も敗走した事を知り、大いに落胆しました。当初の作戦が2つの敗戦によって崩れ去った以上、作戦を変更せざるを得ません。


 そこで、中島加賀という老練な侍を呼んで相談しました。中島加賀は旭川西岸に陣取り、川を渡河してくる宇喜田勢を迎え討つ作戦を提案しました。石川久智もその提案に賛成しましたが、久智の老臣達は従わずにそれぞれ勝手に軍議を続けていました。


 そうしてモタモタしている所へ、宇喜田の本隊、河本、対馬、花房助兵衛らの隊が3手に分かれて攻め寄せました。石川勢は引くに引けなくなり、原尾島村の中道に備えを設けて防戦することとなります。


 直家の本隊は、石川勢の先陣へ鉄砲を撃ちかけつつ突撃を敢行しました。河本、花房隊は石川勢の備えの左右に兵を進め、直家の本隊と石川勢の戦闘が激しさを増した頃合を見計らって、石川勢の両側面をつきました。


 その為、石川勢は三方から兵を受け、たちまち混乱を来たし崩れ始めました。立て直す間もなく攻め立てられた石川勢は、中島加賀を始めおびただしい人数が討死を遂げました。


 石川勢は北の中島城の方角に向かって敗走を始め、宇喜田勢も八幡村(現岡山市八幡)辺りまで追撃をしました。


 しかし、石川勢もさるもの、ここで備えを一旦建て直して反撃を試みます。この石川勢の反撃により、勝ちに乗って攻めて来た宇喜田勢は手痛い損害を被り、逆に敗走を始めました。追撃の絶好の機会でしたが、先の戦闘で石川勢も甚大な損害を被っていたため、石川勢は深追いせずに引き揚げを開始しました。



明禅寺城本丸跡より原尾島方面を望む
原尾島





 本隊の三村元親は、四御神村の辺りを通過する頃、明禅寺城に火の手が上がるのを見ました。早くも落城したかと落胆している矢先に、先手、中軍も敗走したとの報が入った為、全軍が騒然となりました。


 元々、元親の呼びかけで集まった各地の豪族の集団に過ぎません。負け戦が濃厚となったとみて、後陣から我先にと引き返し始めました。しかし、この辺りは至る所に小川があって、足場がすこぶる悪い地形であったので、人馬もろともに溝や川に落ちる者も出始め、大混乱に陥りました。


 この混乱の最中、元親の旗本勢はさすがに備えを乱さず、家親の仇、直家と一戦すべく南進を開始しました。


 この動きを見た直家も、一旦引いて兵を休めていた明禅寺城の西の小丸山から兵を降ろし、明石飛騨、岡剛介を前衛として備えを固めて待機します。


 元親は宇喜田の旗印を見るや、弔い合戦を果たそうと真一文字に攻めかかり、たちまち前衛の明石隊、岡隊を斬り崩しました。


 しかしこの間に、後陣に控えていた、先手の庄元祐を破った戸川、長船、宇喜田、延原の軍勢が、三村勢の両側面に兵を進めます。そして、前衛を突破し勢いに乗って宇喜多直家本隊に攻めかかろうとする三村勢の両側面から攻めかかりました。


 三方に兵を受けては、復讐の意気に燃える三村勢といえども持ちこたえることはできません。たちまち備えを乱し、総崩れとなりました。


 三村元親も討死を覚悟し最後の突撃をしようとしましたが、家来が馬の口をとって西に向かって引き揚げました。宇喜田勢も元々兵も三村方より少なく、中軍の石川勢に手痛い反撃を喰らったばかりなので、あえて深追いはしませんでした。


明禅寺城本丸より四御神方面を望む
四御神方面





 三村方はこの日、旭川の東の平野で行われた3カ所の戦いの全てにおいて打ち破られ、後には三村方の兵の死体が累々と転がっていました。


 こうして備中の覇者、三村家は備前の地で手痛い敗戦を喫しました。備前西部の豪族は、この戦いを境に宇喜田直家の支配下に入っていくこととなりました。


 宇喜田直家の生涯で最も華々しい勝ち戦であり、寡兵をもって大軍を擁する三村勢を各個に打ち破ったことは、直家の優れた戦略眼、戦術眼を示すものでしょう。


 また、この戦いで宇喜田勢は鉄砲を効果的に使用しており、これは経済的に豊かで、製鉄でも古来より優れた備前福岡の地を基盤とし、鉄砲鍛冶を含む鍛冶職人を早い段階で手元におくことができたことによるものでしょう。


 これが後世、「明禅寺崩れ」と言われる戦いです。




<明禅寺城>


 城構えは、操山山頂から北に長く伸びた尾根の頂部に、背後(南側)に一段の腰曲輪を伴う中心郭(本丸)を構え、尾根筋に沿って北側に二段の腰曲輪と、西側に三段の腰曲輪を伴う準中心郭(二の丸)を配置した小型の連郭式山城です。


 城郭は土塁で構築され、現在は郭の段取りと背後を遮断する堀切が確認できる程度だそうです。


 建築物は掘立て柱建物と防御用の柵を中心にした臨戦用砦の構造であったと考えられています。




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