現在の本丸天守閣がある場所は岡山という丘でした。その西に、石山という小高い丘があり、その北西には天神山という丘もありました。
この3つの丘をひっくるめて岡山と言っていたようで、昔の本丸は石山にあったのですがその頃から岡山城と呼ばれています。
そこに、金光宗高という豪族が本拠を構えており、明禅寺合戦では戦の前に宇喜田方について重要な役割を果たし、宇喜田方の勝利に貢献しました。
その後、宇喜多直家の将として岡山城に在城していましたが、直家に逆心を抱いているとの風聞がたちます。
この金光宗高の家来に後藤某という侍がいました。かねて宇喜多直家とは昵懇の間柄で、よく沼城に招かれて直家の碁の相手もしていました。
この後藤が罪を犯したことから、金光宗高は後藤を殺害します。元々、直家を嫌っていたからか、後藤と相性が悪かったのか、いずれにせよ勘にさわるところがあったのでしょう。しかし、これが直家の逆鱗に触れました。
折悪しく逆心の風聞も出ていた為に、直家は元亀元年(1570)の夏、金光宗高を沼城に呼び寄せ切腹を命じました。
金光宗高は必死に陳謝しますが聞き入れられず、切腹の座につくこととなりました。
直家は、子供に所領は安堵するから、城を明け渡すように伝える旨の遺言状を書くことも要求しました。
金光宗高は、抗することも出来ず、遺言状を書いて切腹しました。
まんまと遺言状をせしめた直家は、直ちに腹心の戸川平右衛門(秀安)を向かわせ岡山城の接収をしようとしました。
しかし、戸川の兵卒は60人程度だったので、金光勢が明け渡しを拒否すればどうしようもないと訴えました。
その時、大剛の侍、馬場重介(職家)が進み出て、自分が城を受け取りそのまま守りを固めましょうと言いました(馬場重介については、砥石城を参照)。
直家はこれを聞き、戸川と馬場の二人に任せることとし、二人は120人の兵卒を率いて城の接収にのぞみ、無事城を受け取って守りを固めました。
ここに直家の飛躍と岡山の発展の舞台が整ったのです。
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