<名護屋城>
天正18年(1590)に、小田原城を攻略し後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、以前からの野望である中国大陸への出兵を押し進めた。
その前線基地として選ばれたのが、名護屋の地であった。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、秀吉は朝鮮渡海のために便利な港を家臣達に問い、名護屋という良港を知ったそうである。
天正19年(1591)、ここ名護屋の地に九州史上最大の城郭を出現させる大土木工事が開始された。加藤清正、黒田官兵衛、小西行長を中心に九州諸大名の協力を得て、この工事は進められた。
異例の突貫工事となった名護屋城築城は、開始5ヶ月後には主要部が大部分完成していた。常時4、5万人の人足を動員していたようである。
こうして完成した陣城は、もはや陣城の域を逸脱した大規模城郭であった。城域17万平方メートル、総石垣造りで5重の天守閣を備え、本丸には豪華な御殿、茶室や能舞台まで備えており、その規模は伏見城、聚楽第にも匹敵した。
往時の姿は、肥前名護屋城博物館に収蔵されている屏風で知ることができる。それによると、天守は白漆喰総塗籠(姫路城などと同じ)の白亜の天守であったようである。もっとも、この屏風絵の通りであったかは判明していない。
渡海する諸大名の陣屋も周囲に築かれ、その数は120にも及んだ。諸大名が引き連れてきた軍兵で名護屋の地は埋まり、常時20万人ともいわれる人数が滞在したため、名護屋の地は一時、京をもしのぐ大都市となった。
文禄元年(1592)、遂に渡海した日本軍はたちどころに首都、漢城(ハンソン、現在のソウル)を攻略。しかし、民衆の蜂起や李舜臣らの活躍により、兵站を断たれたちまち苦境に立たされる。
慶長元年(1596)、明からの講和使節がここ名護屋城を訪れる。しかし、講和は成立せず再び朝鮮に兵が送られた。この文禄・慶長の役は秀吉が慶長3年に没するまで続き、兵站を断たれた日本軍は朝鮮各地で凄惨な戦いを強いられた。
秀吉没後、ようやく諸将に帰国命令が出た。しかし、7年に渡る軍役で皆疲弊し、攻め取った土地もなく恩賞もないままであったため、後の豊臣家大名の分裂を招く一因となってしまった。
また、朝鮮でも壬申倭乱と呼ばれ、日本の侵略として現在でも語り継がれている。ソウルの歴史博物館には、植民地時代と合わせて資料が展示されており、幼稚園の子供達までもが見学に来ている。行くと非常に肩身が狭い。
朝鮮出兵の後、名護屋は元の寒村に戻った。関ヶ原の戦いの後、寺沢広高が唐津に領地を与えられると新城を築城。名護屋城の廃材を用いたと伝わる。
こうして石垣だけが残っていたが、島原の乱の後、同様の乱を恐れた江戸幕府の破城令によって、破却されてしまい現在に至っている。
現在は城跡や各陣屋跡の整備が着々と進んでいる。
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