日本の城  日本の城唐津城 肥前 十一の三
日本の城を写真にて攻め撮るのでござる。おかしな物語と共にいざゆかん戦国無双の城撮り名人の道!
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日本の城を攻め撮れ!ー城撮り物語ー

<唐津城>


 唐津城は、豊臣秀吉の臣・寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)が、慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて慶長13年に完成しました。


 寺沢広高は文禄4年(1595)、唐津の領主であった波田氏が改易になったのに伴い、唐津の領主となりました。


 その後、関ヶ原の戦い(1600)で徳川家康の指揮する東軍に付き、岐阜城攻めで功を立てて天草郡を加増され12万3千石となりました。1万石で250人の動員可能兵力を有すると概算して、およそ3075人の動員可能兵力を持つ大名ということになります。


 そして、慶長7年に築城を開始しました。


 築城には九州諸大名の協力を受け、名護屋城の解体資材を用いたと言われています。また河川の流れを変えるなど、大土木工事を行ったそうです。


 城は本丸、藩主の住居等がある二の丸、武士の住居があった三の丸、商人達が済んでいた外曲輪等から構成され、城下町を取り込んだ総構(そうがまえ)と呼ばれる、小田原城に代表される構造をした巨大城郭でした。


 城の全域は約45ヘクタールにも及ぶそうです。


 また本丸は、松浦川の河口に在り、当時陸続きであった満島山を人工の川によって切り離して造られました。北側は唐津湾になっており、三方を水で囲まれ水上に浮かんでいるようにも見える、非常に堅固な造りとなっています。


 城の形状は平山城です。本丸とその下の二の曲輪は連郭式(山城などに見られる本丸とその他の曲輪を順に連ねていく方式)になっています。また、本丸、二の丸、三の丸も連郭式の配置ですね。





 城主は初代・広高の跡を二代・堅高(かたたか)が継ぎますが、寛永14年(1637)に起きた島原の乱の責任を問われ、天草にある富岡城4万石を没収されました。これを恥じた堅高は正保4年(1647)に自殺。子供がいなかったために、寺沢家は断絶しました。


 寺沢氏改易後は幕府直轄領となっていましたが、慶安2年(1649)に明石城から大久保忠職(おおくぼただもと)が8万3千石で入城します。そして、二代忠朝(ただとも)へと続きますが、佐倉城へ転封されます。


 それに代わって佐倉城から松平(大給)乗久(まつだいら(おぎゅう)のりひさ)が、入城。乗春、乗邑(のりむら)と続きましたが、鳥羽城へ転封されました。


 その鳥羽城から土井利益(どいとします)が7万石で入城。土井氏の治世は長く続き、4代を経て下総古河へ転封されました。この土井氏が唐津城に最も縁があると考えられているのでしょう、唐津城の本丸にたなびく旗には土井氏の家紋がありました。


 宝暦12年(1763)、岡崎城から水野忠任(みずのただとう)が6万石で入城し4代続きます。その後、文化14年(1817)、忠邦の時に浜松城へ転封されます。


 今度は陸奥棚倉から小笠原長昌が6万石で入城しました。小笠原氏は4代続いて明治維新を迎え、廃藩置県によって唐津城も廃城となりました。





 唐津城は現在、舞鶴公園として整備され、桜や藤の名所となっています。天守閣には博物館があり、唐津焼や鎧や武器の展示がしてあります。


 中でも安田作兵衛の槍は見ておいて損はないでしょう。初代城主・寺沢広高は明智光秀の三羽烏と言われた1人、安田作兵衛が浪人であるのを知り、家来として召し抱えました。安田作兵衛は本能寺の変で信長に槍をつけ、傷を負わせたとされる人物です。


 唐津城天守の二階には、その信長に傷を負わせたとされる槍が展示されています。


 本丸からの眺めは素晴らしいの一言です。小高い山の上にありますが、エレベーターが城の西側についており、身障者の方でも簡単に上に登れてしまいます。歩いて登るのが嫌な人も、これを使えば楽に本丸まで行けます。





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