正親町天皇
「今度の上洛、大儀であった。」
彦右衛門
上ずった声で、
「て、天朝様にはご機嫌麗しく、何よりにござりまする。」
(ああ、しまったぁ、緊張してもうたぁ!)
周りの公卿
「ぷっ、クスクス。」
正親町天皇
「京の治安にも気を使い、人心も落ち着いておるはそなたの功績。」
彦右衛門
「いやいや、これも天朝様の御威徳の賜物にて、拙者の力などは大したことはござらぬ。天朝様には貢ぎ物がござりますれば、是非受け取って頂きたく存じまする。」
正親町天皇
「菊亭春季より既に受け取っておる。困窮する朝廷への心遣い、有り難く存じおるぞ。また美作岩屋城では、勅賜の寺号を持つ慈悲門寺に対し、情けある振舞を致した由、天晴な心掛けである。」
彦右衛門
「ははッ!恐れ入り奉りまする。」
正親町天皇
「そなたこそこの京の守りを任せるに相応しい。今度の功績を称えて、従五位下・山城守を授ける!今後も忠勤に励むように!」
彦右衛門
「ははー!」
こうして彦右衛門は面目を施し、拝謁を終えたのであった。
彦右衛門
「ふっふ〜ん、官位もらっちゃったぁ!しかも、山城守!拙者の好きな直江兼続と同じ!」
章之進
「幕府の役職には興味なかったくせに、えらい喜びようですな。」
彦右衛門
「幕府は倒して自ら開いてもよいが、朝廷はそうはいかんからのう。いわば、永久不滅ポイントをもらったようなもんじゃ。ところで、お主達にも官位を賜っておるぞ。」
章之進
「マジっすか?こりゃ棚からぼた餅。また彦右衛門様に美味しい所だけ持っていかれたかと思っておりましたよ。」
彦右衛門
「む、城中の軍資金をネコババ致しておる割には、トゲのある物言いよな。まあよいわ、まず義左衛門には従六位上・刑部少丞(ぎょうぶしょうじょう)、幸之助には正七位上・左衛門少尉 (さえもんのしょうじょう)、俊丸には従七位下・主殿少允(とのものしょうじょう)じゃ。」
「で、章之進には………。」
章之進
「ふんふん」
彦右衛門
「運動会、最下位、ゲッ、下痢の症状!じゃ!」
章之進
「いらないや〜い!ひ〜〜〜ん!」
義左衛門
「ああ、どっか行ってしまった。ちょいとキツいお灸でしたかな。」
彦右衛門
「わっはっは。章之進にもきちんと従六位下・勘解由判官(かげゆのじょう)を頂いておる。ちょいとからかってやったまでじゃ。」
義左衛門
「さて、一応の平穏は取り戻し、上洛の目的も果たしました故、居城に戻ると致しましょうぞ。我らの飛び地領の中心にある岡山城がよろしかろう。」
彦右衛門
「そうだね。」
<正親町天皇>
第106代の天皇。弘治三年(1557)、先代、後奈良天皇の崩御に伴い即位の礼を挙げた。この時、応仁の乱による政局の混乱で天皇家の財政は苦しく、毛利元就など有力大名の献金によりようやく即位の礼を挙げたという有様であった。
その後、永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて織田信長が上洛するに及び、ようやく天皇家の財政難や権威の失墜といった状況が変わる。
織田信長は天皇の権威を利用し、朝倉・浅井や石山本願寺などとの講和の勅命を出させ、天皇家もまた織田信長の政治力・軍事力を利用し、権威の回復を成し遂げた。
しかし、この蜜月関係も長くは続かず、正親町天皇は、天正元年(1573年)頃から信長に譲位を要求されるようになる。しかし、正親町天皇はそれを最後まで拒んだという。
本能寺の変の後、豊臣秀吉に政権が移った後は、秀吉が自身の権威付けに天皇を利用し、天皇家も天下人・秀吉の力を利用したため、天皇家の権威は増々高まることとなった。
武家出身でない秀吉は、足利義昭の養子になることを拒まれ、将軍となって幕府を開く途を断たれた。そこで今度は朝廷での昇進を目指し、天正13年(1585)、関白・近衛前久の養子となり、関白の位についた。
こうして秀吉は朝廷の権威を最大限利用し、また天皇家も秀吉の軍事力を背景にして朝廷の権威を回復したといえる。
天正14年(1586)、正親町天皇は、孫の周仁(かたひと)親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。その後、文禄2年(1593)に崩御した。
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