<林野城(倉敷城)>
林野城は三星城と梶並川を挟んで対岸に在り、共に要害の地にあって美作東部の拠点となった城である。 梶並川の東に林野城、西に三星城がある。林野城の南側には吉野川が流れており、梶並川と合流している。
北と西を梶並川、南を吉野川に囲まれ、東側は峰が連なっている。標高250メートル、比高170メートルの山上、東西に伸びた稜線に沿って三の丸、二の丸、本丸が連郭式に配置され、南北は急峻な崖によって守られている。
城の歴史は古く、鎌倉時代には城が築かれており、林野城と呼ばれていたようである。その後、倉敷城とも呼ばれるようになる。
時代が下って14世紀中頃・南北朝時代、動乱の最中、三星城に後藤氏が地頭職を与えられて入城する。この頃、林野城にも後藤一族が在城していたようである。
その後、北朝方の足利幕府で将軍尊氏と弟の直義が対立し、観応の擾乱が始まる。この争いは2代将軍義詮(よしあきら)と直冬(ただふゆ)(尊氏の庶子で直義の養子)に引き継がれ、直冬は南朝方に帰順する。
後藤氏は美作守護で将軍方の赤松氏についていたが、康安元年(1361)、直冬に属していた山陰の山名時氏が美作に侵攻し、後藤氏は山名氏に降った。この時に三星城と共に林野城も落城したと『太平記』に記されている。
この後、めまぐるしい勢力交替を経て、美作には出雲の尼子氏の勢力が浸透し始め、天文13年(1544)に後藤勝基もその傘下に入った。 この時から林野城には、尼子の武将、川副久盛(かわぞえひさもり)が入城した。
尼子氏の勢力が毛利氏のために衰えると、後藤勝基は備前の浦上氏と結んで林野城を攻めたが、落とせずに小競り合いを繰り返した。
その後、永禄8年(1565)に尼子氏の本拠が毛利氏に包囲されるに及び、川副久盛は出雲に引き揚げ、林野城には浦上氏に従う江見氏が入城することとなった。
天正7年(1579)、宇喜田直家が後藤勝基を攻撃した際に、城主の江見市之丞は後藤方について戦い、鷹巣城で討死した。
その後、宇喜田軍により林野城も三星城と相前後して落城し、宇喜多直家の家臣、片岡土佐守らが城番として在城した。
関ヶ原の後、小早川秀秋が岡山城に入城すると、その家臣、稲葉通政(正成とも、徳川三代将軍家光の乳母、春日局の夫である)が在城した時期もあった。
小早川家の断絶後は、美作に織田信長の小性、森蘭丸の弟である森忠政が入国。林野城は廃城となり山の麓に家老の居館が置かれた。
山麓には安養寺がある。慶長年間に建立された古寺で、本尊の木造十一面観音像は国指定重要文化財である。因みに、この十一面観音というのが、阿修羅道において衆生を救う観音様である。

この安養寺には、二条城の二の丸庭園を造ったことでも有名な茶人大名・小堀遠州公作庭と言われる庭園もある。
林野城は美作の拠点として、信長の野望で登場することがあるが、むしろ拠点となるべきは後藤氏が在城し、三村軍、宇喜田軍との戦いの場となった三星城の方である。
ついでに言うなら、三星城も美作東部の拠点に過ぎず、本来なら宇喜田直家から美作経略を任されていた花房職之が在城していた荒神山城の方が、美作の拠点にはふさわしいかもしれない。
いやいや、毛利との攻防戦を演じた岩屋城の方かも………要するに、美作はこれといった勢力がないために、どこを拠点とすべきか分からんのかも(笑)。
でも、林野城ではないでしょう、間違いなく。
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