<三星城>
三星城(みつぼしじょう)の歴史は、応保年間(1161〜1163)に平家に属する渡辺長寛が居館を構えたことに始まる。
14世紀中頃には、南北朝動乱の最中にこの地に地頭職を与えられた後藤氏が城主となった。
やがて、北朝方の足利幕府は将軍尊氏と弟の直義が対立し、観応の擾乱が始まる。この争いは2代将軍義詮(よしあきら)と直冬(ただふゆ)(尊氏の庶子で直義の養子)に引き継がれ、直冬は南朝方に帰順する。
後藤氏は美作守護で将軍方の赤松氏についていたが、康安元年(1361)、直冬に属していた山陰の山名時氏が美作に侵攻するに及び山名氏に降った。
この後、明徳2年(1391)、明徳の乱で山名氏清が失脚し備前守護に赤松氏が復帰すると、後藤氏は赤松氏に服属することになる。
さらに時代は下って嘉吉元年(1441)、嘉吉の変で赤松氏が没落し山名氏が美作守護になると、後藤氏はまたしても山名氏に服属することになった。
応仁の乱が始まると、今度は一転、赤松氏について細川勝元の東軍に属し、西軍の総帥山名宗全に敵対する。
応仁の乱の後は、美作守護に返り咲いた赤松氏の勢力下にいたが、赤松政村が家臣の浦上村宗に殺されると、後藤氏は浦上氏に服属した。
こうして諸勢力の間を転々とした後、浦上氏の下で勢力拡大を図るが、やがて美作には出雲の尼子氏の勢力が浸透し始め、後藤氏もその傘下に入る。
しかし、尼子氏も毛利氏の為に力が衰え始めたので、後藤勝基は浦上宗景と結んで梶並川を挟んで三星城の対岸にある林野城を攻めた。この戦いは城方の反撃を喰らって失敗に終わるが、尼子の武将、川副久盛(かわぞえひさもり)が出雲に引き揚げたので、林野城は後藤・浦上連合軍の手に落ちた。
この頃に後藤勝基は、浦上家で頭角を現していた宇喜多直家の娘を妻に娶ることとなった。浦上宗景の命令によるものであった。
やがて美作に毛利氏の勢力が及び、永禄8年(1565)5月、毛利氏を後盾とする備中松山城の三村家親に三星城を攻められるが、勝基は天然の要害を利してよく守り抜き、三村勢の攻勢を防ぎきった。
この時、後藤勝基は宇喜田直家の娘を嫁に迎えていたので、宇喜田方の猛将・馬場職家が三星城に加勢に来て、三村方の兵を相手に大暴れし、功名を立てている。
また、三村方と後藤方の間で、次のような狂歌の応酬も行われたという。まず三村方から次の矢文が射ち込まれた。
井楼(せいろう)を上げて攻めるぞ三星を天神そへて周匝(すさい)くひ物
天神とは浦上宗景の居城、天神山城のことであり、周匝(すさい)とは茶臼山城のことである。
これに対して、城方も次の矢文を返した。
天神の祈りのつよき三星をなりはすまひぞ家ちかにおれ
このような狂歌の応酬があり、戦況が膠着状態となる中、三村家親は力攻めをすることなく備中に引き揚げていった。
こうして勝田、英田郡を制し美作東部を支配下に置いた後藤勝基であるが、自分の舅である宇喜田直家が下克上により浦上宗景を滅ぼし、美作進出を目論むに及んで両者の仲は険悪となる。
この状況下、宇喜田勢は延原弾正景能、花房職之を大将として1万余の軍勢を進発。美作諸城を次々と攻略し、天正7年(1579)4月に三星城の攻略を開始した。
城方は500人余り(城の案内板には6千騎とされているが、あまりにも多すぎよう。恐らく、宇喜田直家による美作東部攻略戦当初の美作東部諸軍の総軍勢だと思われる。)が籠城し各曲輪をよく守ったが、宇喜田方の調略の手が伸び、寝返りが出て誅殺が行われるなどして徐々に力を奪われた。 このあらましは物語にある通りである。
結局、三星城は宇喜田方の忍びが放ったものと思われる火で、城の所々の陣屋が燃え上がり、同時に攻め寄せた大軍に衆寡敵せず、落城の憂き目をみることとなった。
後藤勝基は城の一方を破って脱出したが、追手が厳しく、逃げる途中で自害した。『美作太平記』によれば長内村の大庵寺、『備前軍記』によると長内村の隠れ坂という場所であったという。享年42歳。 それは美作東部を支配していた後藤氏の滅亡の瞬間でもあった。
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