日本の城  日本の城福山城 備後 十八の五
日本の城を写真にて攻め撮るのでござる。おかしな物語と共にいざゆかん戦国無双の城撮り名人の道!
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日本の城を攻め撮れ!ー城撮り物語ー

福山城


 備後国(広島県東部)福山の地に築かれた平山城で、築城者は徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成。久松城とも呼ばれる。


 元和5年(1619)に、安芸・備後49万8千石を領有していた豊臣秀吉の股肱の臣、福島正則が広島城の無断改築を理由に改易され、信州川中島に赴いた。その後釜に、広島城には紀州和歌山から浅野長晟(あさのながあきら)が入封。福山の地には水野勝成が入封した。


 福山の地は西に浅野、東に池田という外様大名が配されており、また萩の毛利を牽制する上でも重要な地であったため、譜代大名の水野氏の入封は戦略上、重要な意味を持っていたと考えられる。


 入封した水野勝成は、この地の重要性から新たに福山城の築城を開始。わずか3年で築城を終え、元和8年(1622)に福山城が完成した。


 築城に際し、京都の伏見城と福山のすぐ北にある神辺城から、櫓などが多数移築された。これが3年という短期で完成に至った要因であろう。





天守 南から

福山城天守


 福山城は標高28メートルの小高い丘に築かれ、丘陵の北東部に天守がある。天守は半地下式五重六階の構造で、層塔型天守である。


 層塔型とは最下層から最上層まで順に面積を逓減していく方式で、構造が簡単で工期を短縮できる。これに対するのが望楼型天守で、下層にまず建物を築き、その上にちょこんと望楼を積み重ねる方式である。安土城などがその典型である。


 初期築城技術においては、正方形の天守台を築くのが難しく、従って最下層がいびつな形となった。そのため、上に向かって均等に逓減していく層塔型は採用できなかった。望楼型は最下層の設計の自由度が高い反面、構造は複雑になりがちで工期も長い。しかし、個人的にはこのいびつな下層を持ち、複雑な形状をした望楼型天守の方が好きである。





 福山城天守は二重三階の付櫓を持つ複合式天守で、最上階には高欄付き廻り縁を設置、千鳥破風(天守にある三角の屋根の部分)や唐破風(天守の三段目と二段目の間にある丸い屋根の部分)を随所に用いており装飾性が高い。徳川譜代大名としての権威を示すものとも考えられる。


 これに対し、装飾性を廃し実戦的なのが島原城のような天守である。破風(はふ)の一切ない天守は内部からの射撃の妨げとなるものがなく、最後の砦となるに相応しい構造である。現存しないが、北九州の小倉城(現在の天守は、装飾性を出したい自治体の意向で大破風が設けられている模擬天守に過ぎない)や岡山県の北部にある津山城の天守(小倉城を参考にして築城されている)もそうであった。


 破風のない天守は実戦本位で殺風景にも思えるが、事あれば天守で最後の抵抗も辞さない築城者の心意気が見て取れる。この心意気を知って見れば、破風で着飾った装飾性の高い天守より美しいとも思える。





 壁面は総漆喰塗りの白壁で非常に美しい外観を備えている。しかし、天守の北面には鉄板が張り巡らされており黒い外観であったという。また、窓枠には銅板を巻き付けてあり、福山の地の戦略的重要性から防御機能の強化にも余念がなかったことが窺える。


 天守の北面だけに鉄板が張り巡らされたことについては、城の縄張りを見れば理由が分かる。本丸は天守南側にあり城の構造物も南側に偏って設けられている。そのため、天守北側の防御線は非常に薄い。このことから、天守北壁への矢弾による攻撃を防ぐ必要があったのである。





 この他、多聞櫓が多数設置されていたことが特徴的である。多聞櫓とは、城の石垣の上に設けられる外壁を櫓に置き換えたものと考えればよく、石垣に沿って細長く大きな壁のように設けられる櫓である。当然、狭間のついた通常の外壁よりも防御効果は高い。


 その多聞櫓も防御線の薄い北側に集中している。防御線の薄さを多聞櫓という強固な外壁で補ったものであろう。


 その他の櫓については、本文中で記述したのでここでは省略する。





 水野氏は5代続いた後、藩主が2歳で逝去したため元禄11年(1698)に改易。翌年、松平忠雅(まつだいらただまさ)が山形から10万石で入封するも宝永7年(1710)に伊勢桑名に配置換えとなった。


 これに替わって下野・宇都宮から阿部正邦が入封し、阿部氏の治世が幕末まで続いた。この阿部氏は幕府老中を4人も輩出した名家で、ことに7代阿部正弘はペリー来航時の筆頭老中として、日米和親条約の締結を行ったことで有名である。


阿部正弘

阿部正弘銅像


 その後、福山城は戊辰戦争において、長州軍の包囲を受け開城。明治維新後には多くの建物が解体され、堀も埋められた。残った建造物も戦災により焼失し、わずかに筋鉄御門と伏見櫓が残されただけとなった。


 戦後、次々と建造物が復興されていったが、城域内は満足な調査が行われることもなく整備されていっており、敷地内(昔の大手門にあたる鉄御門や櫛形櫓のあった場所のあたり)に新幹線が通されている様は、大変残念なことである。城域内、天守北側のテニスコートだけでも何とかしてもらいたいものである。


 天守閣は現在、博物館となっており、見事な甲冑や徳川家康、水野勝成の蝋人形などが展示されている。老朽化が進み、館内は薄暗い。改修の必要性高し。天守からの眺めは素晴らしい。訪れたら是非登ってみることをおススメしたい。


 城の西に広島県立歴史博物館がある。ここは真新しく綺麗な博物館で、展示内容もよくておススメ。特筆すべきは草戸千軒の復元展示で、中世の街の様子を知る事ができる。


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2007/03/06(火) 01:58:31 | お城の冒険
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