彦右衛門
「よし、本丸は制圧したな!」

大塔宮令旨、村上家相伝の腹巻、伝来文書、安宅船の模型などを展示している。水軍の歴史についても知ることができる。玄関には兜と陣羽織が置いてあり、試着が可能。記念に是非、試着しておいて頂きたい。受付のおばちゃんの目の前なので、試着にはそれなりの勇気が必要である。

水軍資料館の横にある建物で、中には軍議をする村上水軍の人形が展示してある。真新しい畳の匂いがする展示室で、当時の様子を知ることができる。


因島水軍城本丸の全景。背後の山が片刈山城跡である。登山道もついてないようだったので行ってないが、薮こぎをして登ってみるのも一興かもしれない。
義左衛門
「まずは因島を落としましたな。」
彦右衛門
「勝鬨じゃ!」
彦右衛門勢
「エイエイオー!」
<因島水軍城>
昭和58年12月1日に築城された全国でただ1つの水軍城である。歴史家・奈良本辰也氏の監修により再現された。
村上水軍には、因島、能島、来島の三家があり、室町・戦国時代を通して、数百年にわたって瀬戸内海の制海権を掌握し、合戦の他、遣明船の警護も行っていた。
因島村上家は中世、11万4千5百石を領有。交易による莫大な富を握っており、実質40万石相当の海の大名であった。
毛利元就と陶晴賢が戦った弘治元年(1555)の厳島の合戦において、因島村上水軍は毛利氏に加勢したことが確実視されている。本州に最も近い因島村上家は、中国地方の情勢を巧みに読み取り最も早く毛利家に近づいたのであろう。因みに、能島村上水軍の村上武吉はこの時の動静が明確ではない。
1543年に種子島に鉄砲が伝わると、因島水軍でも早速これを入手。因島の西隣にある生口島垂水で桑原家に作製させ、田坂槍之介義英が試射に成功し量産化。その5年後には中国へ輸出するまでになっていた。
また、因島村上水軍には因島鉄砲組と呼ばれる鉄砲隊が存在した。上記、田坂義英に加えて、岩本一角、島居祐宗(しまずいすけむね)、世良田貞房の4人を中心とする4部隊を鉄砲隊として組織していたようである。
鉄砲の装備や集団運用は織田信長に限ったことではない。各地との交易が頻繁に行われていたことや、水上戦での飛道具の重要性からすれば、水軍の方がより早く鉄砲の有効性に気付き取り入れていたのではないだろうか。
実際、沿岸部に本拠を持ち水軍を擁する雑賀衆もいち早く鉄砲を装備し、集団運用していたのであり、信長は彼らに本願寺攻めの時に散々な目に遭わされている。信長の鉄砲運用は、実際の戦闘で彼らに学んだ部分の方が多かったものと思われる。
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