日本の城  日本の城能島城 伊予 二十の五
日本の城を写真にて攻め撮るのでござる。おかしな物語と共にいざゆかん戦国無双の城撮り名人の道!
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
日本の城を攻め撮れ!ー城撮り物語ー

<能島城>


 能島城は大島と鵜島の間にある能島と鯛崎島からなる海城である。能島を本城とし、鯛崎島を出城として、複雑な海流の中に浮かぶ二つの小島を城砦化していた。


 能島は大きく三段に削平され、南と東の突端に出丸状の曲輪が造られていた。面積は能島が7010平方メートル、鯛崎島が337平方メートルで、標高は24・9メートルである。


 能島城跡は現在、桜の名所となっているそうである。


 本拠地は対岸の大島にある宮窪にあり、こちらにも村上水軍ゆかりの史跡が残っている。


 能島城の主である能島村上氏は、南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海の海上交通を掌握していた村上一族の1つで、来島・因島の村上氏と強い同族意識で結ばれていた。


 因島村上氏が毛利氏と、来島村上氏が河野氏と結びついたのに対し、能島村上氏は独立性が高く、独自の姿勢を崩さなかった最も海賊衆らしい一族である。


 三家の中でも最強を誇った能島村上氏は、武吉の時に最盛期を迎える。武吉は海上交通の法も制定しており、当時の権力の強大さが分かる。


 村上氏が制定した法の一例が、大島の村上水軍博物館に掲示されていたので紹介する。


1、難破船の資材・荷物は、その船が流れ着いた浦の寺社の修理費用に充てること


2、船同士が沖で衝突したときは、風下の船の乗組員が一人でも風上の船に救出されれば、風上の船の責任は問わないこと


3、船がいつ寄港地から出発するかは、船頭の判断に委ねること





 かの有名なルイス・フロイスもこの能島を訪れていたという。当時の村上水軍の権力の強さを物語る話であろう。


 村上水軍は焙烙火矢など、火薬を用いた戦法を得意としており、織田信長との第一次木津川沖海戦でも織田方の水軍を完膚なきまでに破り、本願寺への兵糧輸送に成功した。


 しかし、第二次木津川沖海戦では、信長の命令により九鬼嘉隆が造った鉄甲船の前に敗北(村上水軍博物館では、この事実は紹介されていなかった)。以後、毛利家は織田家の侵攻を止めることができず、苦しい戦いを強いられた。


 時代は下って、豊臣秀吉の四国平定が完了すると、村上水軍のような自由な海賊衆という存在も許されなくなり、芸予諸島を離れて毛利氏の被官となる。


 周防国(すおうのくに)大島に給地をあてがわれ、三田尻を拠点として毛利藩御船手組の頭領を勤めた。


 江戸時代以降になると、武吉から元吉と景親の二流に分かれ、景親の子孫は現在まで続いている。


 村上水軍博物館には、この景親流の村上氏の子孫の持つ遺物が展示されている。できたてのホヤホヤで、素晴らしい博物館なので是非訪問されたい。


blogランキングへ援軍を送る!

FC2 Blog Ranking へも援軍を送る!


日本の城を攻め撮れー城撮り物語ーを最初から読む

 

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://hikouemon.blog56.fc2.com/tb.php/97-ac490aa1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
芸予諸島は西日本と京都を結ぶ海の要衝で古くから村上水軍を初めとする水軍(海賊)が発達した。この海域の重要性は安芸国、伊予国の一宮|一の宮である厳島神社と大山祇神社(ともに航海の守護)が芸予諸島にあることからもわかる。市町村合併|平成の大合併の結果、2006年3
2007/03/02(金) 14:28:23 | 島とか
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。