彦右衛門
「おっかしいのう。向島の対岸で落ち合う旨の書状が来たのじゃが……。」
章之進
「十枡でしたっけ?あんなインチキくさいの、アテにできませんよ。もう金をくすねて、どっかで豪遊してるんじゃないですか?」
義左衛門
「それはなかろう。俊丸の手の者に見張らせておいたからのう。きちんと真面目に仕事はしておったらしいが、どうやら秘密の仕事場を作っておったらしく、水軍の実態まではつかみかねたようじゃ。」
俊丸
「何やら巨大な船を造っておるようデブ。完成が遅れているのだと思うデブ。」
彦右衛門
「おお、それは楽しみじゃ。で、これよりどうするかのう。軍師殿、村上水軍についての情報は?」
義左衛門
「はっ、まず村上水軍には因島(いんのしま)、能島(のしま)、来島(くるしま)の三家があり申す。ここより最も近く最初のターゲットとなるべきは、因島村上水軍にござろう。因島に本拠を構え他の二家と協力し、精兵をもって瀬戸内海はおろか東は塩飽諸島、西は九州に至るまでの海上交通を抑えており申す。中国の覇者、毛利家と最も近い関係にあるのが、因島村上水軍でござる。」
彦右衛門
「聞けば聞くほど難儀な相手じゃのう。して、その兵力や石高は、いかほどのものなのじゃ?」
義左衛門
「11万4千5百石を領有致しおりますが、海上権益の恩恵を受けており、実質石高は40万石に相当すると見受けまする。」
彦右衛門
「40万石!?カシオの電子計算機で計算してと………一万石で250人の動員可能兵力と仮定して、ピ・ポ・パっとな。うおっ!形式石高で2862人!実質石高なら1万人!」
章之進
「あーた、そろばん使えっての!今は戦国時代!」
義左衛門
(暗算で概算しろや!もう放っておこう……。)
「因島水軍の総大将は、村上吉充(むらかみよしみつ)にござる。船戦には習熟しており、独自の鉄砲隊も構えおる様子にござる。」
幸之助
「そりゃそうと、さっさと攻め込まねばせっかくの奇襲が徒労に終わるダニ。」
彦右衛門
「そうじゃな。しかし、十枡を待って万全を期した方がいいかもしれぬ。俊丸!城内の様子を偵察して参れ!我が軍はいつでも攻め込めるよう、船に乗り込む準備を致せ!」
俊丸
「了解デブ。行ってくるデブ!」
ドッポーン!ジャブジャブ!ズババババ!
章之進
「あやつ、あの身体で泳ぎも得意なのか?」
幸之助
「身体全体が浮き輪のようなものなんダニ。」
半刻後(約1時間後)、因島水軍城内
俊丸
「コソコソコソデブ。どらどら、城内の様子はと。んん?」

村上吉充
「すると彦右衛門めは、因島の対岸に既に着到しておるのじゃな。」
田坂義英
「そのようにござる。我らの兵も既に瀬戸内の各島に伏せておりますれば、奴らが海上にノコノコ出て来た所を一気に殲滅する手はず、相整えてござる。岩本一角、島居祐宗(しまずいすけむね)、世良田貞房と私を含めた鉄砲隊も準備万端。辛き目に合わせてくれましょうぞ!」
村上吉充
「しかし、彦右衛門勢は神速の軍じゃのう。こちらもうかうかしておられんぞ。福山に細作を放っておって良かったわ。」
俊丸
「むむむ、いかんデブ。このまま海上に出て因島に攻めかかれば、たちまち因島村上水軍にやられてしまうデブ。早く彦右衛門様に御報せせねば!」
ガタン!
村上吉充
「む、誰じゃ!」
俊丸
「しまったデブ!」
田坂義英
「彦右衛門めの飼っておる草の者か!捕らえよ!」
俊丸
「ぬおおおお!いかんデブ〜!!」
なんとか逃げようと襲い来る兵を斬り払っていた俊丸だったが、背後から火縄の焼ける臭いがしたかと思った矢先、銃口を背中に突きつけられてしまった。
岩本一角
「あきらめよ!動くとそのどでかい腹に風穴が空くぞ!」
俊丸
「無念デブ……。」
村上吉充
「彦右衛門め、この因島に草の者を忍び込ませてくるとはのう。隅櫓の地下に放り込んでおけ!こやつが帰らぬとなると、待ち切れずに船を漕ぎ出して来るは必定。すぐに出陣じゃ!」
一方、こちらは彦右衛門の陣。
義左衛門
「遅いですな。十枡も現れませぬ。もうこれ以上待っていても埒があきませぬぞ。因島村上水軍に迎撃準備を整えられる前に、攻め寄せましょう。」
彦右衛門
「やむを得ん。攻撃は我ら本隊で行う!船を漕ぎ出し、一気に因島へ攻め寄せるのじゃ!」
こうして、因島村上水軍が既に迎撃の準備を整えていることも知らず、彦右衛門勢は間に合わせの小舟に乗って瀬戸内海へ漕ぎ出したのであった………続く。
<福山城>
備後国(広島県東部)福山の地に築かれた平山城で、築城者は徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成。久松城とも呼ばれる。
元和5年(1619)に、安芸・備後49万8千石を領有していた豊臣秀吉の股肱の臣、福島正則が広島城の無断改築を理由に改易され、信州川中島に赴いた。その後釜に、広島城には紀州和歌山から浅野長晟(あさのながあきら)が入封。福山の地には水野勝成が入封した。
福山の地は西に浅野、東に池田という外様大名が配されており、また萩の毛利を牽制する上でも重要な地であったため、譜代大名の水野氏の入封は戦略上、重要な意味を持っていたと考えられる。
入封した水野勝成は、この地の重要性から新たに福山城の築城を開始。わずか3年で築城を終え、元和8年(1622)に福山城が完成した。
築城に際し、京都の伏見城と福山のすぐ北にある神辺城から、櫓などが多数移築された。これが3年という短期で完成に至った要因であろう。

福山城は標高28メートルの小高い丘に築かれ、丘陵の北東部に天守がある。天守は半地下式五重六階の構造で、層塔型天守である。
層塔型とは最下層から最上層まで順に面積を逓減していく方式で、構造が簡単で工期を短縮できる。これに対するのが望楼型天守で、下層にまず建物を築き、その上にちょこんと望楼を積み重ねる方式である。安土城などがその典型である。
初期築城技術においては、正方形の天守台を築くのが難しく、従って最下層がいびつな形となった。そのため、上に向かって均等に逓減していく層塔型は採用できなかった。望楼型は最下層の設計の自由度が高い反面、構造は複雑になりがちで工期も長い。しかし、個人的にはこのいびつな下層を持ち、複雑な形状をした望楼型天守の方が好きである。
福山城天守は二重三階の付櫓を持つ複合式天守で、最上階には高欄付き廻り縁を設置、千鳥破風(天守にある三角の屋根の部分)や唐破風(天守の三段目と二段目の間にある丸い屋根の部分)を随所に用いており装飾性が高い。徳川譜代大名としての権威を示すものとも考えられる。
これに対し、装飾性を廃し実戦的なのが島原城のような天守である。破風(はふ)の一切ない天守は内部からの射撃の妨げとなるものがなく、最後の砦となるに相応しい構造である。現存しないが、北九州の小倉城(現在の天守は、装飾性を出したい自治体の意向で大破風が設けられている模擬天守に過ぎない)や岡山県の北部にある津山城の天守(小倉城を参考にして築城されている)もそうであった。
破風のない天守は実戦本位で殺風景にも思えるが、事あれば天守で最後の抵抗も辞さない築城者の心意気が見て取れる。この心意気を知って見れば、破風で着飾った装飾性の高い天守より美しいとも思える。
壁面は総漆喰塗りの白壁で非常に美しい外観を備えている。しかし、天守の北面には鉄板が張り巡らされており黒い外観であったという。また、窓枠には銅板を巻き付けてあり、福山の地の戦略的重要性から防御機能の強化にも余念がなかったことが窺える。
天守の北面だけに鉄板が張り巡らされたことについては、城の縄張りを見れば理由が分かる。本丸は天守南側にあり城の構造物も南側に偏って設けられている。そのため、天守北側の防御線は非常に薄い。このことから、天守北壁への矢弾による攻撃を防ぐ必要があったのである。
この他、多聞櫓が多数設置されていたことが特徴的である。多聞櫓とは、城の石垣の上に設けられる外壁を櫓に置き換えたものと考えればよく、石垣に沿って細長く大きな壁のように設けられる櫓である。当然、狭間のついた通常の外壁よりも防御効果は高い。
その多聞櫓も防御線の薄い北側に集中している。防御線の薄さを多聞櫓という強固な外壁で補ったものであろう。
その他の櫓については、本文中で記述したのでここでは省略する。
水野氏は5代続いた後、藩主が2歳で逝去したため元禄11年(1698)に改易。翌年、松平忠雅(まつだいらただまさ)が山形から10万石で入封するも宝永7年(1710)に伊勢桑名に配置換えとなった。
これに替わって下野・宇都宮から阿部正邦が入封し、阿部氏の治世が幕末まで続いた。この阿部氏は幕府老中を4人も輩出した名家で、ことに7代阿部正弘はペリー来航時の筆頭老中として、日米和親条約の締結を行ったことで有名である。

その後、福山城は戊辰戦争において、長州軍の包囲を受け開城。明治維新後には多くの建物が解体され、堀も埋められた。残った建造物も戦災により焼失し、わずかに筋鉄御門と伏見櫓が残されただけとなった。
戦後、次々と建造物が復興されていったが、城域内は満足な調査が行われることもなく整備されていっており、敷地内(昔の大手門にあたる鉄御門や櫛形櫓のあった場所のあたり)に新幹線が通されている様は、大変残念なことである。城域内、天守北側のテニスコートだけでも何とかしてもらいたいものである。
天守閣は現在、博物館となっており、見事な甲冑や徳川家康、水野勝成の蝋人形などが展示されている。老朽化が進み、館内は薄暗い。改修の必要性高し。天守からの眺めは素晴らしい。訪れたら是非登ってみることをおススメしたい。
城の西に広島県立歴史博物館がある。ここは真新しく綺麗な博物館で、展示内容もよくておススメ。特筆すべきは草戸千軒の復元展示で、中世の街の様子を知る事ができる。
章之進
「うははははは!たかだか10万石ぽっちで、俺様の攻撃を防げると思うたかぁ!」
義左衛門
「確かに、動員可能兵力は2500人がやっと。その上に、疾きこと風の如くの我が軍の攻撃を受けては、どうしようもありますまい。後は、天守閣を残すのみですぞ。」
幸之助
「しかし、章之進は相変わらず弱い者には鬼のように強いダニ。」
彦右衛門
「そろそろ退城勧告でも出してやるとするか。家康の従兄弟じゃからのう。下手に討ち撮って、事を荒立てるのもよろしくなかろ。」
俊丸
「では、城を明け渡すよう伝えてくるデブ。」
水野勝成
「最早これまで、潔う自決するかと思っておったが、城を退けと言われるか。」
俊丸
「そうデブ。この城も残すはこの天守閣のみデブ。これ以上の抵抗は無意味デブ。」
水野勝成
「むう、しかし……。」
俊丸
「急襲を受けたにもかかわらず、お見事な采配にて直ちに本丸を固められ、抵抗を試みられたは武士の鑑デブ。武士としての名分は立ったと思うデブ。」
水野勝成
「………相分かった。城を明け渡し申そう。」
俊丸
(しめしめ、うまく説得できたデブ。)
こうして福山城は陥落した。水野勝成は残兵を率いて退去していった。

彦右衛門
「よし、福山城攻め撮ったり!勝鬨じゃ!」
彦右衛門勢
「エイエイオー!」
章之進
ぼそっ、
「伏見櫓を撮り忘れた割には、威勢のいい勝鬨でございますなぁ。」
彦右衛門
ギクッ!
「ささっ、次の目標はと………。」
幸之助
「失態を早く忘れたいようなんダニ。次はいよいよ村上水軍を叩くダニ!」
義左衛門
「今回のような失態をしでかしては、攻略などおぼつかぬ強敵にござりますれば、気を引き締めて参りましょう!」
彦右衛門
「それ!本丸内の各櫓を攻め撮れ!」

本丸南東の隅に築かれた櫓で、望楼の役割を果たしていた。京都の伏見城内にあったものを移築したものと言われる。明治の初め頃に取り壊されたが、昭和41年(1966)に外観復元された。許すまじ、明治維新………。
撮り忘れた伏見櫓と同じく、新幹線から美しい外観を見ることができる。
彦右衛門
「……………。」

本丸東側、月見櫓の北に位置する二層二階の櫓で、元和5年(1619)、水野勝成が10万石で入封し福山城を築いた際に建てられた。明治6年(1873)の廃城の際に取り壊され、昭和48年(1973)に外観復元。許すまじ、明治の廃城令……。
現在は文書館となっており、福山城の古写真や古文書を閲覧することができる。

築城当時から城下や近隣諸村に時の鐘を告げた櫓。緊急時に城下の武士を招集する太鼓も備えていた。城地内に鐘櫓が存在する城は全国的に例がなく、貴重な文化財となっている。
章之進
「さて、ここの目玉の鐘櫓も攻め撮ったし、1つ鳴らしてみるとするか。」
カーン!
注、鐘は鳴らせません。
彦右衛門
「うおぅ、ビビったぁ!迂闊に鐘を鳴らすな、コラ!」
章之進
「あれ、太鼓もある!ついでにこいつも……。」
ドーン!
注、太鼓も鳴らせません。
城下の侍達
「おお!?何事じゃ!あれ!お城が攻められておるぞッ!方々、出会え、出会え!」
幸之助
「章之進!敵を増やしてどうする気ダニ!」
章之進
「いや〜、しかし、今まで気付かないってのもねぇ。」
俊丸
「時代が下って平和になったところデブ。きっと安心しきっていたデブよ。そこへ急襲をかけた軍師殿は、やはりさすがデブ。」
章之進
「要するに、卑怯者ということですか?」
義左衛門
「黙らっしゃ〜〜〜〜〜い(末成由美風に)!『兵とは詭道なり』『其の備え無きを攻め、其の不意に出づ』、孫子の兵法じゃ!」
章之進
「軍師の立てられる策で我が軍の武士は損ばかりしておるからのう。あ、してみると損士の兵法でござるな!うまいな、俺!」
義左衛門
「…………。」
水野勝成
「むう、どこからわいて出たかと思いきや、あっという間に本丸を攻め撮られてしもうた。応援の武士も討ち撮られておるぞ。かくなる上は、天守閣にて最後の抵抗を試みることと致そう。」

写真一番上が新幹線福山駅。写真右手が筋鉄御門で、その左隣・真ん中の建物が湯殿櫓である。さらに写真の左側の見えないところに月見櫓と鏡櫓がある。筋鉄御門の右側には伏見櫓。さらに写真右の見えないところに鐘櫓が存在する。下の図のような配置となる。
月見櫓 湯殿櫓 筋鉄御門 伏見櫓
鏡櫓 (本丸御殿) 鐘櫓
天守閣
章之進
「しっかし、よく見りゃ城の大部分が現代の建物で浸食されておりますのう。」
彦右衛門
「だから現代の事情をシレっと言うなというとるに!」
義左衛門
「まあまあ、急襲は成功にござる!ああっという間に本丸の筋鉄御門ですぞ!」
幸之助
「なんだか随分はしょってるような感じダニ。」
彦右衛門
「だって、城域内に新幹線の駅が建っておるような城、どうやって話を膨らませろっつうのよ!」
章之進
「ああっ!当の本人が現代の事情を入れよった!」
俊丸
「さっさと筋鉄御門を攻め撮るデブ!よく見たら堅そうな門デブよ!」

本丸の南側を守る筋鉄御門である。西に隣接する伏見櫓(写真左にある)と枡形を構成し、非常に堅固な守りとなっている。入母屋造の渡櫓門である。伏見城からの移築によるものと言われ、伏見櫓と共に戦災を免れた。その他の建物は全て焼失した。許すまじ太平洋戦争……。
章之進
「うおぅ、3方向から攻撃を受けますぞ!」
彦右衛門
「俊丸!伏見櫓をなんとかせい!」
俊丸
「了解デブ!忍者部隊は直ちに忍び込んで攻め撮るデブ!」

俊丸
「彦右衛門様!伏見櫓は押さえたデブ!」
彦右衛門
「今じゃ!本丸になだれ込め!」
章之進
「あのぅ、彦右衛門様、伏見櫓の写真は?」
彦右衛門
「撮るの忘れちゃったの………。」
章之進
「ハァ?伏見櫓っていえば、福山城でも一番美しい櫓ではないですか!伏見城の松の丸東櫓を移築したものと言われ、戦災をも免れた三重の美しい櫓を撮り忘れた!なんたる失態!ああ、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!」
俊丸
「相変わらず他人の失態には容赦がないデブ。」
彦右衛門
「すみませぬ、また訪問する機会があれば必ずや攻め撮って参りまする………。」




